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田中拓馬新シリーズスタート The ghost of neo capitalism
長らくの空白期間から復帰!第一弾
The ghost of neo capitalism
油彩 キャンバス
53×45cm 10号
額サイズ 高級額 利休 64×72cm
2021年
作品証明書付属
脳研究者、アクティヴィストの内田淳による論評
作品「The Ghost of Neo Capitalism」
この作品を初めて目にしたならば、まずはそのエネルギーに溢れた筆跡や色使いに目を奪われることだろう。そして、その印象そのものは、この作品や作家の特徴と言っても間違ってはいない。一方で、田中拓馬という作家の面白さは、キャンバスにぶつけられた本能的、感情的ともいえるエネルギーの発露が、同時に知的格闘ともいえる思索の現れでもありえるという、一見矛盾したところにあるのだが、この作品でもその2つの要素の共存を見て取ることができる。そこで、まずはこの作品から見て取れる作家の思想について考えたい。
まず、作品タイトル(直訳すると「新資本主義の亡霊」)からみても、作品中にある「MONEY」とか「CAPITALISM」(資本主義)という言葉からみても、この作品が現代のマネー資本主義的な社会状況をテーマにしていることは間違いないだろう。その中でも、やはり特に目を引くのはピンクや赤などの大胆な厚塗りで描かれた怪物のような何かである。前足を黄土色で描かれた袋のようなものにかけており、その袋のようなものの上には「CAPITALISM」と大書してある。恐らくは黄金か何か、あるいは富や資本を象徴しているのだろうか。顔のあたりからは「MONEY」の文字が繰り返されており、この怪物がいわば金銭に取り憑かれた存在であることがわかる。一方、怪物の後ろの足元には影のように描かれた人々が倒れ込んでおり、怪物は人々を踏みつけ、抑え込んでいるように見える。人物の右下のOMGは英語の「オー・マイ・ゴッド」を意味するのだろうか。その黒く描かれた感情のこもらない筆跡は、人々の絶望を感じさせる。
この怪物こそが、「新資本主義の亡霊」、すなわち、虐げられた人々を搾取する近代的資本主義システムそのものなのであろう。そして、興味深いのがこの怪物の顔のあたりである。この作品だけでは分かりにくい所があるが、同様の怪物が描かれているこの作家の以前の作品を見ると、この怪物はシルクハットのような帽子をかぶっており、その目元は「¥€$」と書かれた眼帯のようなもので覆われている。この作品でも、「¥€$」と書かれているのは怪物の目のあたりと考えていいだろう。では、この怪物の目が「¥€$」で覆われていることにはどのような意味があるのだろうか。
まず、この「¥€$」という記号の羅列については、この作家が以前から使っているものであり、これは、金銭(マネー)のことを意味していると考えてよい。ただし、金銭的価値観について必ずしも肯定的に捉えていないこの作家が、金銭のことを“YES”という肯定的な言葉を使っている意味については、作品ごとに異なるのだが、この作品では、この怪物が金銭的価値観を肯定しているというふうに考えてよいだろう。その意味では、この眼帯は、この怪物は金銭に“目がくらんでいる”という解釈ができる。ただし、この作品においては、別の解釈も可能である。金銭という目隠しによって、怪物は自分が行っていることや周りの物価値を「見えていない」というふうにも考えることができる。さらに別の角度から考えると、この眼帯のために、この怪物の表情が分からなくなっていることに意味を持たせる解釈もできよう。つまり、金銭を求める、という観察できる感情の内側に、違った感情が秘められているのではないか、仮面の下には、どのような表情が浮かんでいるのか、ということである。
しかし、どのような解釈が正しいかは、顔の右下に大きく描かれたクエスチョンマーク“?”が示すように、謎であり、鑑賞者からは隠されているのだと私は考えている。ただし、このように様々な解釈を考えさせることそのものが、この作品の魅力の1つだということは指摘しておきたい。一方で、そのような解釈の多義性を超えて示すことができることもあり、それは、この怪物の描き方のようなことである。この描き方は、なんと力強く暴力的であろうか。例えば、怪物の背のあたりの奔流のような厚塗りの迫力は、写真の画像によっても見ることができるであろう。このようなエネルギーこそがこの作品の本質なのだと言っても、それはそれで決して間違いではないのである。しかし、そのエネルギーに身を浸し、作品を味わう喜びを感じたとしても、どこかで解釈を誘惑するところがこの作品には存在する。この怪物は、なぜ赤やピンクで描かれているのか? この怪物が人々を虐げるような存在ならば、もっと黒く禍々しく描かれていても良いのではないか? あるいは、この赤は、血や筋肉の色なのだろうか。エネルギーの濁流が観えるのは、この怪物が皮膚をはがされて傷だらけだからなのではないか。人々を虐げる怪物、近代資本主義システムそのものが血を流しており、それを構成する私たちは、怪物に踏みつけられながら、怪物そのものでもあり傷だらけなのではないだろうか。
しかし、この辺りにしておこう。優れた作品の前では、解釈は永遠に完結しないのであろう。ただし、正しい解釈にたどり着くことが不可能であることが、大きく描かれたクエスチョンマークによってあらかじめ宣告されているにも関わらず、私たちに解釈を迫ってくる力が存在することは再度確認しておきたい。そして、その力こそが、この作品が優れた作品であることを証拠立てているということは、その力に誘惑されてしまったすべての人が認めるところであろう。
The ghost of neo capitalism
油彩 キャンバス
53×45cm 10号
額サイズ 高級額 利休 64×72cm
2021年
作品証明書付属
脳研究者、アクティヴィストの内田淳による論評
作品「The Ghost of Neo Capitalism」
この作品を初めて目にしたならば、まずはそのエネルギーに溢れた筆跡や色使いに目を奪われることだろう。そして、その印象そのものは、この作品や作家の特徴と言っても間違ってはいない。一方で、田中拓馬という作家の面白さは、キャンバスにぶつけられた本能的、感情的ともいえるエネルギーの発露が、同時に知的格闘ともいえる思索の現れでもありえるという、一見矛盾したところにあるのだが、この作品でもその2つの要素の共存を見て取ることができる。そこで、まずはこの作品から見て取れる作家の思想について考えたい。
まず、作品タイトル(直訳すると「新資本主義の亡霊」)からみても、作品中にある「MONEY」とか「CAPITALISM」(資本主義)という言葉からみても、この作品が現代のマネー資本主義的な社会状況をテーマにしていることは間違いないだろう。その中でも、やはり特に目を引くのはピンクや赤などの大胆な厚塗りで描かれた怪物のような何かである。前足を黄土色で描かれた袋のようなものにかけており、その袋のようなものの上には「CAPITALISM」と大書してある。恐らくは黄金か何か、あるいは富や資本を象徴しているのだろうか。顔のあたりからは「MONEY」の文字が繰り返されており、この怪物がいわば金銭に取り憑かれた存在であることがわかる。一方、怪物の後ろの足元には影のように描かれた人々が倒れ込んでおり、怪物は人々を踏みつけ、抑え込んでいるように見える。人物の右下のOMGは英語の「オー・マイ・ゴッド」を意味するのだろうか。その黒く描かれた感情のこもらない筆跡は、人々の絶望を感じさせる。
この怪物こそが、「新資本主義の亡霊」、すなわち、虐げられた人々を搾取する近代的資本主義システムそのものなのであろう。そして、興味深いのがこの怪物の顔のあたりである。この作品だけでは分かりにくい所があるが、同様の怪物が描かれているこの作家の以前の作品を見ると、この怪物はシルクハットのような帽子をかぶっており、その目元は「¥€$」と書かれた眼帯のようなもので覆われている。この作品でも、「¥€$」と書かれているのは怪物の目のあたりと考えていいだろう。では、この怪物の目が「¥€$」で覆われていることにはどのような意味があるのだろうか。
まず、この「¥€$」という記号の羅列については、この作家が以前から使っているものであり、これは、金銭(マネー)のことを意味していると考えてよい。ただし、金銭的価値観について必ずしも肯定的に捉えていないこの作家が、金銭のことを“YES”という肯定的な言葉を使っている意味については、作品ごとに異なるのだが、この作品では、この怪物が金銭的価値観を肯定しているというふうに考えてよいだろう。その意味では、この眼帯は、この怪物は金銭に“目がくらんでいる”という解釈ができる。ただし、この作品においては、別の解釈も可能である。金銭という目隠しによって、怪物は自分が行っていることや周りの物価値を「見えていない」というふうにも考えることができる。さらに別の角度から考えると、この眼帯のために、この怪物の表情が分からなくなっていることに意味を持たせる解釈もできよう。つまり、金銭を求める、という観察できる感情の内側に、違った感情が秘められているのではないか、仮面の下には、どのような表情が浮かんでいるのか、ということである。
しかし、どのような解釈が正しいかは、顔の右下に大きく描かれたクエスチョンマーク“?”が示すように、謎であり、鑑賞者からは隠されているのだと私は考えている。ただし、このように様々な解釈を考えさせることそのものが、この作品の魅力の1つだということは指摘しておきたい。一方で、そのような解釈の多義性を超えて示すことができることもあり、それは、この怪物の描き方のようなことである。この描き方は、なんと力強く暴力的であろうか。例えば、怪物の背のあたりの奔流のような厚塗りの迫力は、写真の画像によっても見ることができるであろう。このようなエネルギーこそがこの作品の本質なのだと言っても、それはそれで決して間違いではないのである。しかし、そのエネルギーに身を浸し、作品を味わう喜びを感じたとしても、どこかで解釈を誘惑するところがこの作品には存在する。この怪物は、なぜ赤やピンクで描かれているのか? この怪物が人々を虐げるような存在ならば、もっと黒く禍々しく描かれていても良いのではないか? あるいは、この赤は、血や筋肉の色なのだろうか。エネルギーの濁流が観えるのは、この怪物が皮膚をはがされて傷だらけだからなのではないか。人々を虐げる怪物、近代資本主義システムそのものが血を流しており、それを構成する私たちは、怪物に踏みつけられながら、怪物そのものでもあり傷だらけなのではないだろうか。
しかし、この辺りにしておこう。優れた作品の前では、解釈は永遠に完結しないのであろう。ただし、正しい解釈にたどり着くことが不可能であることが、大きく描かれたクエスチョンマークによってあらかじめ宣告されているにも関わらず、私たちに解釈を迫ってくる力が存在することは再度確認しておきたい。そして、その力こそが、この作品が優れた作品であることを証拠立てているということは、その力に誘惑されてしまったすべての人が認めるところであろう。